2011/09/14

【小説】失恋日記 - 作:沙綺

失恋日記

作:沙綺
「失恋とは良き人とめぐり会うための踏み台である」――コクハック著 「紳士的男子の恋愛」


 さて、この日記の趣旨を先に述べておこう。これは読んで字の如くそのまま、私の失恋日記というものではない。当たり前のことだが、恋が成就するお話でもなく、ただの惚気失恋話なのでありそこに至るまでの過程を述べても何ら意味がない。日記と書いてありながら書いてあるのは後日談となるだろう。私なりの恋愛の考察である。つまり「日記」と呼べるものではないが他に良い言葉が見つからなかったので敢えて日記という名前をつけておく。断っておくが、これは別に私のボキャブラリーが少ないとか、頭が悪いとかそういう問題ではない。ただ、実は失恋話をたらたらと書き続けるだけであったりもする。
 日記と言う名でこれを書いたのは私が、終わってしまった恋に打ちひしがれ、正確な判断が出来ず、錯乱状態にあることを意味している。こんな日記を書いているのに錯乱状態とはこれいかに、と思う方もいるだろうが、悲しみの中、一人さみしい夜を平和に過ごせるのは単にこの日記によるものである。つまるところ、私はこの日記に私の思いや恋心や後悔や憎しみや嫉妬などを殴り書きすることによって平生を保っていられるという所存だ。ただ、恋は成就することはなかったので今も昔も一人ぼっちの夜である。いささか悲しいことではあるが私は恋に燃えていた頃、恋人と二人で過ごす夜に憧れを抱き、卑猥かつ破廉恥な妄想に耽っていたこともお察しの通りである。なので結局のところ、そんな妄想をしていなければこんなさみしい夜にはならなかったのではないか、一人で「失恋日記」なるものを書いていなかったのではないか、はたまた涙で枕とノートを濡らしていなかったのではないか、実は「失恋日記」ではなく「妄想日記」を書いていた方が良いのではないか。断っておくが、この日記に何かを溢したような染みがあったらそれは私の失恋の涙である。今後の教訓にしてもらいたい。
 それと、私はここで自己紹介をする気はない。というのも、この日記を完成させたあかつきには、このノートを投げ捨てるつもりだからである。投げ捨てることに関して、ポイ捨てはいけない、環境にわるい、街をきれいに、ふざけるな、お前の話など聞きたくない、かわいそう、ノートを作った人に謝れ、などの意見が寄せられるかもしれないが、私は感知しないだろう。捨てはしないものの、名も知らぬ喫茶店に入り、このノートをわざと置いて帰るかもしれない。その時に、名も告げず、ノートに絶対名前と住所を書かないことを覚えておこう。私は正直者で忘れっぽいからである。なので私の名前が分かってしまえば元も子もない。それではただの暴露日記になってしまうからである。
 話がずれてしまった。
 さて、私の失恋をもとに、他の悲しい男性諸君の失恋を防ごうというのが私の狙いである。この日記が男性諸君、さらには恋人のいない男性諸君の手に渡る確立は大雑把に考えて四分の一である。私はその四分の一の確率にかけてみたいのだが、もし外れてしまった場合、誰か使えそうな人に渡しておいて欲しい。

 前置きが長くなってしまったのはいささか面目ない。前半部分は言い訳と捉えてもらっても結構である。では、私の惚気話を聞いてくれないか。 

 私が■■■■さんに恋をしたのは高校一年の春である。麗かなる春の陽気の中、頬杖をつきながら窓の外を眺めていた清楚で可憐な彼女の姿に私は一目ぼれをしてしまったのである。その瞬間、私の心の中に一抹の不安がよぎったのである。 
 正直なことを言うと、私のこれまでの人生は失恋の人生であった。 
 幼稚園の頃はまだそんなことに興味はなく、ただひたすらに目の前にあるおもちゃと格闘し、ブロックを組み立て、変身ごっことおままごとを楽しんでいた。ああ懐かしき平和な日々。 
 小学校にあがると低学年の頃はまだしも、高学年になるとやはり学友と同じく人を好きになることを知った。知るだけならまだしも、四年生の時同じクラスの女子にメロメロに恋をしてしまったのだから救いようがない。そんな女子はやめておけ、と今になっては言えるのだが、かつての自分にそう言うことが出来るはずもない。誰かタイムマシンを開発してくれ。そういえば小学校二年の時に書いた将来の夢はタイムマシンの開発であった気がする。昔の私は預言者か予見者か。思い切って告白するものの、返事はノー。絶望に打ちひしがれる。人生初の恋は甘酸っぱさを感じる前に利根川に浮かぶ枯葉のように太平洋へと流れていった。 
 私は学習能力があったのか無かったのか六年生の時もう一度恋をした。今度はミス○○小学校なるものがあれば優勝間違いなしの学年的学園的アイドルに恋をした。倍率は高い。大学受験の倍率よりもかなり高い。付き合ったあかつきには学年男子全員を敵に回すのではないかと思われるくらいの美貌の持ち主だった。前回の恋では駄目であったのに今回の恋が実るはずもない。そう考えた私は花を添え告白をすることに決めた。花は「ゆり」。なぜならば彼女の名前は「百合花」ちゃんであったからだ。「君に似合う花だ。受け取ってくれ。ちなみに僕の心も受け取ってくれ」と言うと、彼女は「気持ち悪い」と言って去ってしまった。これは我が学校に伝わる七不思議の一つになったとか。曰く「百合を用いると告白は失敗する」と。後日談ではあるが、私は馬鹿で阿呆で間抜けだった。彼女の名前は「ゆりか」ではなく「ももか」であったのだ。紛らわしい名前をつけるな、ももかちゃんの両親よ。そして間違うな私。 
 そして中学生になる。この時はもう分別もつき、やたらめったら恋に現を抜かす真似をすることは無くなっていた。その代わり、ある話を聞いてそれを実行していたのである。次に紹介するものはちょうど私が読んだ本に同じ事が書かれていたものである。 

「人生にはモテ期が必ず一度は到来する」――コクハック著 「紳士的男子の恋愛」 

 そう私は自分から攻めるのではなく敢えて守りの姿勢をとることにした。その為、毎日学校に行くのが楽しみで仕方が無く、下駄箱を開けるのにうきうきしていた。とんだ阿呆である。聖バレンタインの日には心臓の鼓動が通常の三倍で響き、周囲五メートルにいる人にまで聞こえそうであった。日に何度も机の中を、例の物が入っていないかを確認した。 
 挙句に果てには二年生の時のバレンタイン、イタズラ好きな我がご学友が、ダミーチョコレートと手紙を用意し、私の机に入れたのである。結果は見え見えの事。誰もが一度は経験するだろう。その日私は、七時まで体育館裏で待っていた。結局のところ、攻める姿勢から守る姿勢に変換することが間違っていたのであることに気付いたのは中学三年の夏である。そもそも恋を「攻める」のは良いが「守る」とはこれいかに。守ってどうする。それでは貞操を守りたいという理由で、モテないことを敢えて肯定している悲しき性を持った男と同じではないか。私はもちろん、守るのではなく受け止めるほうに回りたかった。もっと積極的になればよかった。守っているだけでは点数を稼げない。チョコレートを貰えないのは当たり前だ、と私は本当に叫んだ。私は中学校の三年間を棒に振るった。そもそも中学時代にモテ期が到来すると誰が言ったのか。私には予見能力が備わっているはずなのではないか。今までの人生がまるで走馬燈の様に頭の中を駆け巡った。どこかで読んだ表現であるが察して欲しい。兎にも角にも、高校生ではこんな失態をしないと誓った私であった。 

 そして高校一年生に至るのである。私は新たな恋を探すべく、中学三年の春休みを利用して男を磨いた。いや、実際には磨こうとした。その時に、先ほどから出てきていたコクハック先生と出会ったのである。その本は、大型書店にはもちろんの事、古本屋や通販でも手に入らない希少なもの、本当のことを言えば、十数年前に発売されたが人気の無さに絶版になっていた本である。それを近所の小さな個人経営の本屋で見つけたのである。 
 まさに衝撃であった。コクハック先生の本は全五巻。彼はどうやら心理学者らしいが、彼は他に本を出していない。そもそも彼は心理学者であるかどうかさえ謎である。真意の程を確かめようにも検索ワードに引っかからない。困ったものである。 
 彼の本は一巻から順に、 
「普遍的男子の恋愛」 
「好色的男子の恋愛」 
「頭脳的男子の恋愛」 
「独裁的男子の恋愛」 
「紳士的男子の恋愛」 
 である。 
 全く、ふざけたものである。突っ込みどころ満載であるのだか、敢えて突っ込まないでほしい。もう私が数万回突っ込みを入れているからである。これ以上この本に突っ込みを入れるのは公共の利益に反する他、もったいない、労働力の無駄、骨と軟骨の摩擦によって生み出された熱による地球温暖化の進行などが挙げられる。 
 紹介をするならば、第一巻「普遍的男子の恋愛」という本の最初のページには普遍的男子の説明が書かれていた。 
「外見に大きな特徴も無く、どこにでも存在する男性である。学生ならば成績は中の中、社会人ならば年収五百万ほどである」 
 これでは何のことか分からない。私は早々に書を閉じ、次の巻を手に取った。第二巻「好色的男子の恋愛」である。 
「まず始めに、この本を読む男子諸君はフェロモンを常に放出していなくてはならない」 
 この時点で次の巻に進む。私にフェロモンなど存在しない。第三巻「頭脳的男子の恋愛」である。 
「頭脳的男子とは成績優秀かつ何事にも頭脳を使う者である。彼らのチャームポイントは眼鏡である」 
 眼鏡をかけるほど目は悪くないので残念ながら無理であった。私にも何かチャームポイントが無いかと数分間考えてみたが残念ながら思い当たる節は見つからなかった。 
 第四巻「独裁的男子の恋愛」見るからに怪しい本である。 
「独裁者とは常に人から愛されざる存在である。つまりは貴君等のことだ。この書は愛されない男子に対してのものである」 
 これは、今までに無くまともな本ではないか、と私は思った。本屋のおじさんに怒られないよう早々と読む。しかし読むにしたがってその内容はどんどん過激になっていた。最後には一夫多妻万歳なる文字が現れて私は思わず「破廉恥な!」と叫んでしまい、本屋のおじさんに怒られた。これも青春の一ページ。 
 最後の巻「紳士的男子の恋愛」私の愛読書である。 
「今までの巻の恋愛成就方法よりも紳士的な恋愛の方が愛される。英国紳士が培ってきたものを受け継ごうではないか」 
 コクハック先生は今までの本を無かったことにするらしい。無論私もそれに賛成である。今までのものよりもこちらの本の方が実用的かつ実践的な内容であった。ちなみにシルクハットやモノクル、ステッキは必要ないらしい。私はこの本をなけなしのお小遣いで買った。痛い出費であったがこれからのことを考えればこれも必要な犠牲、いや参考書であることを私は悟っていた。 
 そして高校に入学。私は入学式が終わった後各クラスを脱兎の如く駆け抜け、言い方が悪いがめぼしい女性を探した。さすがに中学の時よりもいいな、しかしまだ恋は実らない。と思いながら自分のクラスに帰った私は■■■■さんにであったのである。もう一度言おう。麗かなる春の陽気の中、頬杖をつきながら窓の外を眺めていた清楚で可憐な彼女の姿に私は一目ぼれをしてしまったのである。灯台下暗し、路地裏で人知れず咲く美しい花。何故彼女に気付かなかったのか、私の目は節穴か、それとも美しさに気付かなかった私は妖怪か。そう思ってしまうほどであった。 
 この時私は同じ中学であった友人に助言を求めた。彼は言った。告白の仕方を考えてみればいい、と。 
 コクハック先生の本にはこう書かれてあった。 

「男子、恋文は避けるべし。字が汚いのなら尚更である。文字では気持ちは相手に上手く伝わらない。恋文を書くならば告白をしてはいけないのである。恋文を書こうとすると告白のことにばかり気を取られてしまい支離滅裂な文章になってしまうからである。ならば電話か、直接の告白が王道である。ただし、電話の際にはすぐに切られる心配があるのでご用心、ご用心」――コクハック著 「紳士的男子の恋愛」 

 なるほど、それは当然だと私は思う。恋文を否定するわけではないが、恋文によって恋が成就した例は私個人聞いたことがほとんどない。難しいものである。なので私は直接会って告白をすることに決めた。今度は花などを用意しない。ちゃんと学習済みである。 
 時が過ぎ、私は恋愛の勉強をしながら■■さんのことをもっと好きになっていた。もう自分の胸には押さえきれないほど。事ある毎に我が友人にそれを聞かせていた。本当に阿呆である。もうここまできたのならいっそもう告白をしてしまえ、と何度思ったことか。その度に立ち止まりコクハック先生の言葉を思い出すのである。 

「外堀は埋めるだけではなくそのまま塀を作る勢いで」――以下著者出典割愛 

 塀を作ってどうする、と思ったがそれは彼女が自分以外の男子に恋をするのを防ぐ働きを持つものであると考えた。つまりは塀を作るまで告白をしない。そして特に大切なことは、 

「何事にも動じず、男子常に紳士たれ」 

 素晴らしいお言葉である。私は、彼女の声が聞こえれば気がついていない振りをしつつ耳を澄まし、彼女が鉛筆を落とせばさりげなくしかし俊敏にそれを拾い、彼女が日直の仕事を忘れれば変わりに私が、彼女の目のつくところで行った。紳士的な行動をしつつも、心の中は恋に飢えた野獣であったのは言っても仕方が無い。それほど私は必死だったのである。必死であったからこそ、私は間違いを犯したことに気付かなかった。私としたことが、振り返らなければ恋人を連れ戻せただろうに。オルペウスとイサナギノミコトの大馬鹿野郎。 

 せめてクリスマスは彼女と過ごしたいと思い、とうとう告白をすることに決めた。大丈夫。もう対策は万全である。コクハック先生に感謝感激。しかし待て、それを言うのは成功してからである。と思い、彼女を放課後屋上に呼び出した。 
「君の事が好きだ。付き合ってくれ」 
 放課後の屋上、というのはベタな展開であると思うであろう。しかし、それは戦術的かつ成功率八十パーセントを超えるものであると推測した結果なのだ。 
曰く、 
「(学生に限り)告白は放課後の屋上で。自分は屋上のドアを背にし、ストレートに告白をする。この時、ストレートなのが肝心である。思春期の女子はそういう押しに弱いのである。また恥ずかしさから立ち去ろうとする女子もいるだろうが、その時君は屋上のドア側にいる。その腕を掴み、彼女の瞳を見つめたまえ」 

 一つ断っておけば、これはコクハック先生著の「紳士的男子の恋愛」に載っていたものであり、私の考え方ではない。とてつもなく偏見の混じったものであるのはいささか忍びない。コクハック先生に代わって私が謝罪しよう。 
 だが、これには一つ欠点があった。 
「ごめんなさい。私には付き合っている人がいるのです」 
 そう。先ほどのものは彼女に付き合っている人がいないことが前提であり、このシチュエーションでなくとも成功の確率はほとんど無いだろう。私は絶望感を味わったがもう慣れていた。そして後学のためにと彼女に付き合っている人の名前を聞いた。 
 友人ではないか! 
 私は駆け出した。これでは私は、かの有名な夏目漱石氏の「こころ」でいうKの立ち位置ではないか。私は精神的に向上心が無かったのか。そうではあるまい。絶対にそうではあるまい。私は全力を尽くした。外堀もしっかりと埋め、塀はおろか頑丈な城まで作っているつもりだった。しかし、せっかく作った塀の中に最初から誰かが入っていたのでは全く意味が無い。私の友人は私の心を知りながら私を裏切り、先手を打っていた。何という屈辱。しかし私はKではない。そこで落ち込んだりはしない。なのでこれを書いているのである。その時ほどこのまま死んでもいいのではないか、彼を殺しても誰にも文句を言われないのではないか、いっそのことこのまま彼女を拉致してもいいのではないか、というかこんな伏線どこにあったのか! 
 不純な考えが脳裏をかすめたところで私は自分を抑制した。私は彼を殺すのはやめておいた。決して彼のためではなく、彼女の幸せのためである。これこそ紳士、ジェントルマン。ここで泣いてはいけない。男の涙とはもっと特別な時に取っておくものである。これはメモしてもらいたい。 
 その場を去った私はさすがに耐え切れずにこにこ笑っている友人を一発殴った。これも紳士の嗜み、あらかじめ謝っておいた。これは暴力ではない、粛清だ。 
・・・ 
・・・ 
・・・ 
・・・ 
 少し感情が暴走してしまって申し訳ない。一人の夜にこんなことをするのはいささか無理があったと思う。後日談とか言っておきながら結局昔話しかしていなく、実益の無い話なのではあるが、あと少しなのでお相手願いたい。 
 さて、私の失敗の原因は何だったのだろうか。コクハック先生の本は非常に素晴らしいので全く原因の内に入らない。私の並々ならぬ努力もそうである。ではやはり我が憎らしき友人が原因なのであるのか。それもまた違うだろう。では何か。それは多分、タイミングの問題であるだろう。外堀を埋めすぎて埋めたところに塀や城を作るのに半年もかかってしまったことが大きな問題であることは間違いない。コクハック先生ならば外堀を埋め、塀を築くのに一ヶ月もかからないだろうに。これは単にタイミングの問題である。大事なことは二度繰り返す。これ基本なり。 
「恋とはタイミングが重要(大事なことは・・・以下略)」 
 私はそれをコクハック先生の本の裏表紙に書いておいた。今後とも忘れない為である。外堀を埋めすぎる者よ。タイミングを間違わないように。 

 さて、夜も深まるばかり。クリスマスシーズンがやって来ようとする少し浮かれた街を眺めながら私は一人さみしくこの日記を書いている。もうこんなことならば、クリスマスに間に合わせよう、とか思わなければ良かった・・・ 

「失恋とは良き人とめぐり会うための踏み台である」――コクハック著 「紳士的男子の恋愛」 

 なぜだろう。良い言葉なのに悲しくなってくる。 
 もう恋なんてしない、なんて言わないが少し自粛しようと思う。熱くなりすぎた。 
 私は今宵も、将来出会うであろう人のことを考える。妄想は私の十八番だ。これ以外にあまり取り柄が無いのもまた事実なり。 
 恋愛とは、万人に与えられた最大の試練である。私はそれを肌で感じ、またその壁を未だに乗り越えることが出来ていない。失恋の数だけ人は成長し、失恋の数だけ良き人にめぐり会う確率があがる。ふざけるなと思っている方々もいるかもしれない。しかし、私は思う。恋をするからこそ他人という存在を理解できるのではないだろうか。他人の心を理解することが出来るのではないだろうか。 

 本当はこの日記を早く破り捨ててしまいたい。ここまで書いてきてそれはどうかと思うが、やはりこれは何の教訓にもならないだろう。実益の無いものを世に残しても公共の利益に反する。でも、どうせなら不毛な努力に一生懸命であった哀れな男子高校生を覚えておいて欲しい。 


 十二月二十一日 

 恋に破れた少年から恋に努力する者へ

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